漢字音と韻の対転について、簡単に纏めました。
漢字が有れば読み方が有ります。日本語には音読みと訓読みが有る訣ですが、日本が漢字を輸入した際、当時の発音をそのまま取り入れたものが音読みで、普通に「字音」と云へばこれを指します。
しかし当時の日本には表音文字が仮名しか無く、況してやアルファベットや国際音声記号も有りませんから、輸入した漢字の発音を忠実に書き表す方法が有りません。しかし当時の日本人は、仮名の組合せの範囲内のみで、どうにか元の発音に近くなる様に工夫して書き表しました。これが字音仮名遣の始まりです。
字音仮名遣は、現代では「同じ発音の漢字音を、仮名でどう書き分けるかの規則」と解釈できます。例へば、同じ「チョウ」の音でも「長」なら「ちゃう」、「徴」なら「ちょう」、「兆」なら「てう」、「蝶」なら「てふ」と表記した上で、読む時は「チョウ」と発音するのです。
これらは、現代では同じ音に統合されてゐても、漢字を輸入した際には行はれていた発音の区別を保存してゐる標識だとも云へます。日本人の発音が変化しても、表記は変化させないで来た訣です(少なくとも「現代かなづかい」以前は)。そこで、字音仮名遣と漢字の古代音韻を比べることで、当時の日本人がどの様に仮名を当てたのかを知ることができます。或いは逆に、字音仮名遣の表記からは、漢字の古代音を推定するヒントが得られます。
音節は声母と韻母から成ります。詰り、語頭の子音を声母と云ひ、母音を含む語尾の部分を韻母、或いは単に韻と云ひます。例へば、「東」[tong]
では[t]
が声母、[ong]
が韻となります。
古代の韻を古韻と云ひ、これが日本が漢字を輸入し、字音仮名遣を生じせしめた時代の韻と考へられます。近代、古韻の実際を解明する研究は進んで来てをり、その中でも漢字研究で著名な白川静氏は王力氏の試みている〔詩経韻読〕の分韻を一応の準拠としてよいと思われる
と述べてゐます。
そこで、この分韻表、即ち韻を体系立てて分類した表を次に取り上げます。
陰声 | 入声 | 陽声 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
# | 例 | 字音 | 韻 | # | 例 | 字音 | 韻 | # | 例 | 字音 | 韻 |
1 | 之 | し | ə | 10 | 職 | しょく | ək | 21 | 蒸 | じょう | əng |
2 | 幽 | いう | u | 11 | 覚 | かく | uk | 冬 | とう(※2) | ung | |
3 | 宵 | せう | ô | 12 | 薬 | やく | ôk | ||||
4 | 侯 | こう | o | 13 | 屋 | をく | ok | 22 | 東 | とう | ong |
5 | 魚 | ぎょ | a | 14 | 鐸 | たく | ak | 23 | 陽 | やう | ang |
6 | 支 | し | e | 15 | 錫 | せき | ek | 24 | 耕 | かう | eng |
7 | 脂 | し | ei | 16 | 質 | しつ | et | 25 | 真 | しん | en |
8 | 微 | び | əi | 17 | 物 | ぶつ | ət | 26 | 文 | ぶん | ən |
9 | 歌 | か | ai | 18 | 月 | がつ(※3) | at | 27 | 元 | がん(※4) | an |
19 | 緝 | しふ | əp | 28 | 侵 | しむ(※5) | əm | ||||
20 | 盍 | かふ | ap | 29 | 談 | だむ(※6) | am |
[ung]
は〔楚辞〕にて分出する押韻であり、〔詩経韻読〕の29部と合せて、〔楚辞〕の分韻は30部この表では古韻が29部に分かたれ、それぞれが陰・入・陽の三声に分類されてゐます。ここで、陰声は母音で終るもの、入声は[k][t][p]([f])
で終るもの、陽声は[ng][n][m]
など鼻声で終るものです。
「字音」の列は字音仮名遣を表すのですが、入声の列を見ると、韻が[k]
で終るものは「き」「く」、[t]
には「つ」、[p]
には「ふ」と、見事に対応してゐるのが解ります。実際には[t]
終りの字音仮名遣として「ち」もあります(例: 質屋 しちや)。これら入声は現代北京語では消滅してゐますが、日本語では字音仮名遣として保存されてゐます。
陽声に於ける韻尾の[n]
と[m]
ですが、福田恆存氏によると、平安初期には[n]
に「ニ」を、[m]
に「ム」(「ミ」)を当てて区別してゐたのが(※7)、子音終りの発音に慣れない日本人にとっては言ひ分けも聞き分けもできなくなり、早早に「ん」に帰したとのことです。これを反映して、字音仮名遣でも「む」終りの表記をしないのが普通ですが、最近はこの表記を認める辞書もあり(例: 「全訳漢辞海」、三省堂発行)、先の表では敢へて「しむ」「だむ」の表記を取り入れてゐます。
その他、韻が[ng]
で終るものには、押し並べて「う」を当ててあることが解ります。これに加へて、[eng]
の場合のみ「えい」を当てた様です(例: 経 けい)。現代では[ng]
音を表すのに「ん」「んぐ」を当てるのが普通ですが(例: 東 dong トン)、当時は「ん」より「う」「い」に近い音に聞えた、或いはそれに近く(鼻に掛けて)発音されてゐたのかも知れません。
[m]
終りには「蝉 せみ」「文 ふみ」、[n]
終りには「銭 ぜに」「縁 えにし」といふ語が(一見、音読みとは気づかない形で)存在してゐます。先の分韻表で、同じ行の韻は相互に通用することがあり、これを対転と云ひます。次に例を示します。
これらの内、特に陽入対転は、発音時の舌などの位置が近く、形声文字等で発音が入れ替り易いと言はれてゐます。実際に発音してみると、[k]
と[ng]
は舌の根の上げ方が近く、[t]
と[n]
は舌先の弾き方が近く、[p]
と[m]
は唇の弾き方が近いことが解るでせう。高崎一郎氏は「鄭ティ(ng)」と「擲テキ(k)」、「合カフ(p)」と「龕ガム(m)」
と云ふ例を挙げてゐます。
対転を知ってゐると、例へば「珊瑚」の「珊 さん」の声符が「冊 さつ」なのも、納得して憶えられるかと思ひます。