トレスの区別: 臨写と摹写

昨今、絵画の世界では「トレス」(或いは「トレース」)といふ単語がウェブ上で賑はひをみせてゐますが、単に「トレス」と言っても次の2つの意味が有り、両者が混同されて使はれてゐる様に思ひます。

本来の「トレス」は(2)のみを指す筈ですが、特にウェブ上では、(1)が入るかどうかが人によってもバラバラな様に感じます。(1)を「模写」、(2)を「トレス」と呼んで区別する例も有る様ですが、やはり断り書きがないと、万人に誤解なく通じるとは思へません。

もし、両者をきっちりと区別して呼びたい場合、何か上手い言ひ方は無いのか? と思って調べると、書道の世界では、(1)が「臨書」、(2)が「摹書」として区別されてゐるさうです。長くて恐縮ですが、解り易く説明されてゐる文章を次に引用します。[1]

書き手は自在な運筆をめざすために、古人の書を学ぶ。学ぶ際に行われたことは、原本を「うつす」という行為である。その際、大きく2つの方法があった。1つは、書き手が見て写す方法、もうひとつは、敷き写す方法である。(中略)

今人はみな臨と摹は1つのものとしており、臨と摹が相当異なったものであることを知らない。とは、紙を(手本類の)傍らにおいて、その大小、濃淡、形勢を観てこれを学ぶことである。とは、薄紙を(手本類の)上に覆い、その曲折に随って筆をめぐらせることを言う。臨書は古人の位置(点画・文字・行などの構成)を失いやすいが、古人の筆意を得ることは多い。摹書は古人の位置は得やすいが、筆意を失うことが多い。

游宦紀聞』。書には筆意と位置の両方が備わっていなければならない。現代の言葉でいうと、筆意は運筆の趣、位置はかたちと概ね言い換えることができよう。

臨書と摹書を合せて臨摹と呼びます。「摹」とは見慣れない漢字かも知れませんが、「摸」と同じ意味・読みの異体字です()。

小学生時代、国語の課題で漢字ドリルが有りましたが、あれも薄く印刷された見本の字をなぞる摹書のタイプと、見本の下の白いマスに自分の筆跡で書いていく臨書のタイプが有ったのを思ひ出します。

又、「臨書」「摹書」の代りに、「うつす」ことに主眼を置いた「臨写」「摹写」といふ言ひ方も有る様です。こちらの方が「臨書」「摹書」よりも意味が広く、一般的に使へる様に感じます。

そこで、2種類の「トレス」を区別する話に戻ると、絵画の世界でも書道に倣って、「見て写す方法」の場合は「臨写」、「敷き写す方法」の場合は「摹写」と呼んでも良いのではないかと思ひます。両方を指す場合は、「臨摹」と硬い言ひ方もできますし、両者を区別する必要の無い場合は、従来通り「トレス」又は「模写」と呼んでも混乱しないと思ひます。


※「摹」は「摸」の異体字で、どちらも意符「手」+声符「莫」の形声字ですが、慣用が異なる、とされてゐます。([2] p.811「模」「摹」、p.853「摸」)

但し、異体字は通用しますので、例へば「摹写」を「摸写」と書いても誤りではありません。現在の日本では「摹」の字自体が全く知られてゐないので、ここに挙げた辞書的な慣用は廃れてをり、「摸」だけが使はれてゐるでせう。

尚、異体字の関係でありながら、使ひ分けの慣用が残ってゐる例としては、「著」・「着」が有ります。著は著作・顕著に、着は着衣・到着に用ゐられるのが一般的です。

参考文献