「正かなづかひ 理論と實踐」 読者と著者の立場から

全篇が歴史的仮名遣で書かれた素敵な同人誌「正かなづかひ 理論と實踐」について、読者の一人として、また時には参加者の一人として、簡単な感想を記してあります。

創刊號

概要

正かなづかひ 理論と實踐 創刊號
編輯兼発行人: 押井徳馬
監修: 野嵜健秀
発行所: はなごよみ
寸法・頁数: A5・164頁、表紙を含めると168頁
公式サイト: 正かなづかひ 理論と實踐 創刊號 - はなごよみ:刊行物の紹介

「現代仮名遣い」が全盛の世の中にあって、この同人誌は全篇が歴史的仮名遣で書かれてゐるといふ意慾作です。題名の「正かなづかひ」には、「現代仮名遣い」よりも歴史的仮名遣がきちんとした仮名遣だといふ思ひが込められてをり、主旨に賛同した約20名の有志が原稿を持ち寄って完成させた、164頁の大作となってゐます。

前半「理論篇」は歴史的仮名遣そのものについて論じてゐますが、仮名遣の原理や経緯を知らない方でも読み易い入門編となってゐます。後半「實踐篇」は詩や小説などの文藝作品集となってゐますが、「たまたま仮名遣が歴史的仮名遣なだけ」といふ感じで、違和感無く作品を楽しめました。

また、親切にも『「旧字」虎の巻』といふ新字・正字の対比表が別紙で添へられてゐました。正字(常用漢字表による字形改竄を受ける前の字体)に慣れてゐない方も、読み進め易いのではないでせうか。そして、「歴史的仮名遣には古典でしか触れなかった」といふ方にとっても、歴史的仮名遣で現代文や日常会話を普通に書けると解っていただけるんぢゃないかと思ひます。

空拇も参加

みに、私こと空拇も、この創刊號に「歴史的かなづかひの練習」を寄稿()しました。歴史的仮名遣の初心者の方にも読み易く書いたつもりですので、ぜひ手に取って御覧ください。

私が同人誌に参加したのはこれが初めてでしたが、普段、他人が読む文章を書く時に歴史的仮名遣を使へない鬱憤を晴らすかの様に、気持ち良く原稿を書けました。また、前から漠然と作りたいと思ってゐた練習問題を紙媒体で形に出来て、実物を手に取って読むと感慨深いものが有りました。こんな絶好の機会に巡り会へて、本当に幸せです。有難うございました。

※訂正情報: 私の原稿にミスが有り、34頁上段の最終行、解説中の「未然形の」を、「親戚の」に訂正します。解答自体にはミスは有りませんが、練習問題なのに正しくない解説を書いてしまひ、すみません。公式の正誤表も御参照ください。

収録作品の感想

歴史的仮名遣好きの私が言っても説得力が無いかも知れませんが、歴史的仮名遣に疎い方も楽しめる本だと思ひます。仮名遣の勉強もできますが、普通に文藝集としても面白く仕上がってゐます。

とは言っても、いきなり正字の文章を読むのはハードルが高いので、公式サイトの目次で★2つ以下の作品で、興味を持てた所から読み始めると良いでせう。公式サイトに内容見本のPDFもありますし、何となく「歴史的仮名遣も結構イケる」と思ってもらへたら幸ひです。

みに、私自身も寄稿して同人誌の完成に貢献したといふことで、素敵なにゃもちくんカバー附きの初版を送って戴きました。或る程度じっくり読んだ後、「これは良いものだ」と覚ったので、布教用に2冊購入してゐます。

さて、ここ以降は、収録されてゐる各記事の感想を書いて行きます。、著者(敬称略)と題名は、公式サイトの目次を拝借しました。有難うございます。

野嵜健秀: 序文
この同人誌が発行されるに至った動機・思ひが、「私達」(執筆陣)から「あなた」(読者)に語り掛ける形で綴られてゐます。この前文は広辞苑前文方式で書かれてゐるので、歴史的仮名遣を知らない方でも読みやすいでせう。歴史的仮名遣は生きて、ここにありますといふ一文が、この同人誌を上手く象徴してゐると思ひます。
刑部しきみ: イラスト
「歴史的仮名遣の擬人化」と言はれても違和感の無い、別嬪の和服お姉さんの素敵な挿絵で、この本の持つ雰囲気の一面がよく出てゐます。

エッセイ

押井徳馬: 歴史的仮名遣は生きてゐる!
題名が全てであり、私も完全に同意します。みに本文の仮名遣が何か妙だと思ったら、広辞苑前文方式でした。ですので、誰にでも読み易いでせう。
三宅龍太郎: 私たちの歴史的仮名遣
形容詞に「です」が附かない文体が目を引きます。私自身、形容詞+「です」は正しくないのか、よく解ってゐませんが…。内容では、明記されてはゐませんが、後半の「新世代の書き言葉」とは棒引き仮名遣のことでせうか。これがスタンダードにならなくて良かったと本当に思ひます。
對馬仁: 正字正假名と宗教心
野嵜さんのサイトに行き着き、「私の國語教室」を読んで、正字正かな派に転向したといふ流れが私と同じで、ちょっと驚くと同時に何か親近感を覚えました。案外、そんな方も多いのかも知れません。私が野嵜さんのサイトを見つけたきっかけは、宗教ではなくHTMLだったと思ひます。
因みに、これより前のエッセイは敬体でしたが、ここから常体になります。頁が変ってゐるので、それほど違和感が有りません。
彊: 上方ことばと正假名遣ひ
私は関西(∋上方ことば)が大好きなので、後半の上方ことば表記には萌えました。関西辯で書かれた文章に出会ふこと自体が少ないのですが、かうして歴史的仮名遣で書かれた関西辯を見ても、普通にすらすらと読めます。かういふ時に、關西人且つ歴史的仮名遣愛好者で良かったなあと思ひます。
出人: 「新かな」と「正かな」のはざま
読売新聞のコラムを元に書かれた感想ですが、きちんと本文が「主」、引用部分が「従」になってゐて、正しい引用の仕方の良いお手本になってゐます。
引用部分にある新旧共通の表記となる言葉だけで文章を書くとは紛れもなく広辞苑前文方式のことで、時折使ってゐる私としては、ニヤリとしてしまひました。広辞苑前文方式の使ひ手に、小西甚一といふ方が居られると知れたのも収穫です。

「理論」篇

野嵜健秀: 歴史的仮名遣の原理
文法を軸にした理論展開なので、最初の記事としては、ちょっと専門的で難しく感じました。私が文法をり意識せずに歴史的仮名遣を書いてゐるからかも知れません。
平頭通: 正かなづかひの書き方ガイド
冷静に読むと簡潔な内容なのですが、漢字の割合が多い文章なので、私の様なゆとり教育世代には、何だか取っつき難い文章に思へてしまひます。特に「」などの副詞や「此処」などの指示語が漢字だと、読み慣れてゐない感覚を強く感じます。慣れて行きたい所です。
最後の一段動詞一覧表は、チートシートとしてよく出来てゐると思ひます。別添の新字・正字の対比表と同じ様に、附録化しても良いのではないでせうか。
空拇: 歴史的かなづかひの練習
ミスをしてしまひ、重ね重ねすみません。間違ひを正すといふ主旨で、自分が間違ってゐたとは、とんだ間抜けでした。
その他、原稿を書いた立場としては、強調を表すのにナイスな傍点を施していただいたり、文章中の二重表現を指摘していただいたりと、編輯面でも大変御世話になりました。
山口翔平: 楷体新書
実例に基づいた手書きの見本字体を眺めてゐると、どことなく漢字ドリルを思ひ起こさせ、しかし書道展を観てゐる様にも感じます。隷書から引き継いだ一画だけ長く書く「波磔」といふ概念など、知らないことも多く、為になりました。
しかし実を言ふと、この同人誌の中で、これが一番曲者に感じました。何しろ、この記事で紹介されてゐる「楷書の書き方」を、私自身が全然守ってゐなかったからです。
「手書きではかうやって崩して書くのが普通ですよ」と言はれても、字源を求めるのが好きな私にとっては、「大して書く手間は変らないのに、なんでわざわざ字源を解り難くするんだ?」と思ってしまひ、どうにも抵抗があります。「秘」なんかは、「示」偏の方が正しいと解ってゐるなら手書きも追従して直せば良いと思ふし、「舎」もわざわざ「干」を「土」にする必要は無いでせう。
歴史的仮名遣や正字の伝統には理論的に納得できる正しさを感じますが、手書きの方は、幾ら「筆の運び」が有るとは言へ、全部に納得はできないなあ、といふ所です。決して山口翔平さんの書き方が悪いではなく、また所謂「康煕字典体」(≒正字)にも「当時の手書きの傾向を無視した筆画が制定されてゐる」「字形の誤りが幾らか含まれてゐる」といふ問題が有るのも承知してゐますが、紹介されてゐる手書きの慣習に首肯できない所が多いだけです。念のため。
[1. 簡易リフトに人は乘るな 2. 積載量は200kg以内 3. 中シャターを確実に締て運転する]
実例を挙げると、この写真は某所で撮影した手書きの注意書きですが、1行目の「簡」、3行目の「実」「転」が略字なのに対して、「乘」は正字になってゐます。また、この同人誌のカバー裏に有る四漫画の「歴」の手書き字も、「木」ではなく「禾」の正字になってゐます。これらの例から考へると、「旧字体はどう書けばいいのか」の全てに妄信的に従ふ必要は無いのかなあと思ひます。
野嵜健秀: 国語問題の歴史
丁度「私の國語教室」を補完する様な内容になってゐます。平成の今になっても混沌とした状況が改まってゐないことに改めて気付かされます。

實踐」篇

酒井景二朗: 雨と風を詠む
かういふ文語調の短歌を詠める人になりたいものです。下に降る「雨」が縦書き、横に吹く「風」が横書きなのも心憎い演出です。
ところで、一番下の作品の題名は何かの事故なんでせうか? …もしかして最終話のことなのかな?
卜部兼榛: 物産展
小噺といったきで、サクっと読めました。会話の関西が生生しさを強調してゐて良い感じです。
雨宮 冬明: 春の夢跡
ちょっと全体的に展開が急な気もしますが、冒頭でグッと惹きつけられて、最後は上手く着地できたといふ感触で、爽やかな読後感です。89頁の上段後半で、さり気なく国語改革批判が含まれてゐると思ふのは、深読みし過ぎでせうか。
かふし: 男の娘爆誕しろ!
完全にライトノベルです。「現代かなづかい」や「当用漢字」なんてものが制定されてゐなければ、今の日本でこんな作品を普通に見られたのになあと、しみじみしてしまひました。個人的には、もう少しルビを振ってもらった方が読み易いかなあと思ひますが、何よりも続篇を希望します。
そしてリオシさんの挿絵、これが卑怯過ぎます。冒頭の刑部しきみさんの挿絵とのギャップが凄いことになってゐて、思はず噴きました。しかしこちらの絵も、この本の持つ雰囲気の一面がよく出てゐると思ひます。
押井徳馬: 大好きよ!おねえさま
過去に「お嬢様言葉の研究」を書かれた押井さんの作品だからでせうか、フィクションならではの女子校の雰囲気や言葉遣ひに説得力があります。ストーリーは決して軽いものではありませんが、不思議と読後感は悪くありません。

書評、評論、その他

名賀月晃嗣、平頭通、野嵜健秀: 書評コーナー
最初の2冊に対しては、中中辛口な批評がなされてゐるなあと感じましたが、前者は惜しい本、後者は駄本と、批評の方向性が全く異なるのが面白い所です。
最後の1冊は「私の國語教室」となってゐて、やはりこれが無いと始まらないでせう。書評といふよりは、この本が刊行された意義の大きさを紹介する、といった趣きです。
佐藤 俊: 僕の妹はsc恆存の『私の國語ヘ室』を讀むか?
流行りの萌え系の絵柄ではありませんが、私は結構好きです。吹き出し外の手書き文字まで含めて、良い味を持ってゐる作品だと思ひます。因みに、まさかの福田恆存(本人)には驚きました。
中山數次郎: 日本數學史小篇
全然知らなかった話ですが、時折出て来る「今で言へば」がとても解り易く、理系な私にとっては、最後まで面白く読めました。それだけに、和算の最期が寂しい。
ておりあ: 軍歌評論と過去と未來のこと
当時の背景を解説してもらへると、現代でも軍歌が結構楽しめる、といふことが伝はって来ました。政治的といふだけで顧みられないのが勿体無いといふのも頷けます。日本はどうなるのかと、敢て暗く〆てあるのも問題提起としてアリでせう。
平頭通: 改定常用漢字表試案への意見
もしかしてと思ひきや、やはり広辞苑前文方式でした。歴史的仮名遣で書いてあることを言ひにして読まれないのを防ぐためでせう。私でもさうします。
書きながら、どんどんと怒りが抑へられなくなってゐるのが滲み出た文体になってゐて、ちょっと恐いとすら思ってしまひますが、論旨には賛成です。
野嵜健秀: 連載 紙の闇黒日記(一) ファッションとしての正かなづかひ
正字正かな関係の論争と言へば野嵜さんが真っ先に思ひ浮かぶ私にとっては、野嵜さんならではの書き出しだと思った記事です。正かなのファッション化、つまり流行を肯定的に捕へ、単なる流行で終らせず、「『正しさ』への愛好」に捕へるといふのは、成程理想的だと思ひます。
執筆者一同: 編輯後記
これを眺めてゐるだけでも、本当に色んな人が「正かなづかひ」の一点で集まったんだなあと、感慨深くなります。

技術篇(左横書き)

名賀月晃嗣: 正かなづかひで入力する手引 ATOK篇
ATOKの文語モードは私も興味が有ったので、実例を見れて面白く感じました。因みに今の私は、Google日本語入力+野嵜さんの正字正かな辞書で、それほど不自由を感じずに入力できてゐます。
江洲信也: 正假名遣ひを實踐する爲のSKK入門
直接入力といふのでせうか、このSKK独特の入力方法は、やはり私には難しさうです。ここではemacsでの実装が紹介されてゐて、LISPerの端くれである私には少しく親近感がきました。
押井徳馬: 正字正かな文書作成のヒント 第一囘 一太郎・InDesign篇
正字体への一括置換ができないのがもどかしい感じです。手間を掛けて一字一字を調整していただいた編輯作業、本当に御疲れ様でした。